その6

鰻の養殖その後

 

 服部倉治郎によって商業化に成功した鰻の養殖ですが、その後は静岡県を中心として主に東海地方で
発達していきました。鰻の養殖は豊富な水と温暖な気候が必要ですが、大井川河口、浜名湖周辺、
三河湾周辺はその条件にぴったりでした。
 
その養殖の方法は、川魚漁で採れた鰻の養魚(クロコ)を池に放ち餌を与えて商品として通用する大きさ
(1㎏あたり4から8本)に育てるという方法でしたが、昭和の初期に鰻の稚魚(シラス)が海から川に
遡行する時期(11月末から2月頃)に河口で採取してこれを養成していくという方法に変わりました。
当時に餌は生の鰯などの魚をそのまま与え、路地池で2年から3年かけて養成していきました。
それでも昭和30年代までは多くの川や湖で鰻の漁獲があり、養殖鰻は一段低く見られていたことも
事実です。しかし昭和40年代高度成長期になりますと日本各地の河川は開発され、それにつれて
鰻の漁獲は減少し養殖鰻の需要は一気に増大していきます。
減反政策で廃田にした田を鰻の養殖池に変えていく農家もありました。この頃新幹線で静岡駅を過ぎ
浜松駅の先までの平地には多くの鰻養殖池を車窓から見ることが出来ました。この頃またも技術革新
がおきました。
 
一つが餌の配合飼料化です。魚の漁獲量が減り、魚価が高騰したことにより生の餌を与えることが
出来なくなってきました。
配合飼料は魚粉に澱粉とビタミンなどの薬品を加えたものが鰻の餌の主流になってきました。
 
もう一つが温室化です。鰻は温かいところでは早く大きくなる性質があり、これを利用して池をビニール
ハウス化して暖房をおき、早く養成してしまおうという試みです。
この試みは大成功し、丁度鶏肉がブロイラー主体になったように鰻も1年弱で製品になるようになりました。
これら2つの技術革新によって養成途中で死んでしまう鰻が減り歩留まりが改善されましたが大きな
落とし穴がやってきました。石油ショックです。
 
ビニールハウスにおける養殖は当然ながら燃料費がかかります。そこで何人かの養魚家はもっと温暖な
地へ池の移転を考えます。その答えが台湾への進出でした。
彼らは台湾に渡り池を作り、技術を教え、合弁で事業をおこしていきました。
しかし第二の落とし穴が待っていました。日中国交正常化です。
 
日本と中華人民共和国が国交を回復する事は、中華民国(台湾)と国交を断絶することでした。
台湾に進出した養魚家は日本に帰国し、養殖池は台湾人に委ねられることになります。
 
養魚家にとっての悲劇は日本・台湾国交断絶にも関わらず、経済的な交流はむしろ加速して
いったことです。彼らは台湾に鰻の養殖のライバルを作りに行ってしまったことになりました。
このような例はエビの養殖など同様な例はありますが、鰻はその中でもっとも顕著でした。
なぜならば鰻をこれほど大量に消費する国は世界中に日本しかないからです。






 
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